昭和三十九年十一月二十七日 朝の御理解
繰り返し繰り返しご理解を頂いておっても、中々その、ご理解が御教えが自分の身に付くと言うことは、やはり時間を要するものであとその、おかげが本当のおかげになってこない。
昨日、古賀先生が交替するころでしたから、二時ごろでしたでしょう。福岡から古川さんと言う方がお参りして見えて、もうここに、二、三年もご神縁を頂いておるでしょうか、本当にこう、なんと言うですか、邪気のない女将さんです。旅館をしてます。もう相当大きな旅館をしていますですね。この方が一番始めにご神縁を頂いたのは、息子さんがもう高校に上がらなければならないと言うのに、寝小便がやまんち言う・・、ここでお話を聞いてから、お願いにきた。お話もしたでしょうけれども、お話は全然その判らなかった。まあー、お稲荷さんに参るごた気持ちで参ってきた。
秋永先生のお導きでした。その晩から夜中に起きるようになった。それから十日もしない内に、夜起きらんでも小便が出らんようになった。昨日それを、三年前の話を、昨日改めてね、また自分を導いて来た人に話てるんです。ほんにあんた、ご神縁を頂いたのはそんな事じゃったね、と言ってから・・。して、あなたくらいお願いにくりゃ、おかげ頂くと言う人も珍しい、と言うて話した事でした。二度目はいよいよその、ほんとの悩み事を持って来た。と言うのは、そのお父さん、主人になる方が所謂三角関係で悩んでおると言う事である。
始めの間は、それもあったんだけど、まあ恥ずかしゅうて言われないと言うような事だったですね。それ以来それがもう、そのーほんとになんと言うですか、スッキリしたおかげになったきたですね。やはりその、自分も楽になるし、主人も楽になり、それから相手の女の人も立ち行くと言うようなおかげになって来た。
間もなくだった、昨日も、その間、もう兎に角、なんて言うですかね、一週間に一遍づつ位お参りしたりしなさるけど、それが一ケ月に一遍になったり、二ケ月に一遍になったりすると言う位なその信心なんですけどもおかげはよう頂きなさるですね。
そん時にもう、色々なもう、家には何か、何んて言うですかね、お庭いっぱいにそのお稲荷さんがお祭りしてある。水商売の方ですから。けども、それも全部あの壊してですね、それから、お神様とお祭りして、しなおさしてもらった。なかなかその決断もいい方でしそして、非常におかげ頂いて、商売の上にもおかげ頂いておるんでは、もうほんとに、私はあのー、仏様でも神様でもなんでもよいが、相手の女ごを祈り殺されるごとしてくださる神様がござるなら、どがしこお供えしたちゃよかけんで、祈り殺してもらおうと思うたち。ところが、お話を頂かしてもらうと言うか、その息子の事でおかげ頂いて、はあーこの神様は新たかな神様だと言う事がわかって来た。言うなら、少し話が判って来たですね。そいで、あの、この神様はそこには、うんなら自分がその疎かであった。自分が到らなかったと言うところが先ず判らしてもらい、主人も立ちゃ相手の女のかたも立ち、立ち行くような、そして自分もおかげ頂いて行くと言う事になって来なきゃならないと言う事から、まあーそれも、そうと言う事になって、相手の女の人の事を祈るようになった。
相手の方に又好きな人が出けて、正式に結婚された、ね、と言うような、言わばおかげを頂いて、だいぶん信心に筋道が立って来た。けれども、そのそう判っておりながら、その他の事になって来ると中々ですね。また非常に人のいい方でですから、もう二ケ月も三ケも旅館において、そして逃げられると言ったようなケースのお願いが多いんです、この方のは。それでも不思議とおかげ頂くんですね。昨日の夜に来たのもそれなんです。お客さんでですね、博多帯が欲しいと言う人があった、自分の知った織元に電話してやって、六本取ってやった。兎に角、四万か五万方かあるわけなんですね、金額にして。そして、それを持ったままそのお客さん出て行ってしもうた。そして、何日経ったっちゃ帰ってこん、電話だけは掛かって来る、広島から掛かって来たち。必ずお宅にお払いします、ご迷惑はお掛けしませんと、その言うもんじゃから警察にも言われんと言う訳ですね。けれどもまあ。そげん言うても始めから引っ掛ける腹だとう訳なんですね。
まあーあんた馬鹿じゃあるですね、その導かれた人が言いよる、私もそげん言った事ですけれども。わたしゃ何時もこげしてだまされちと自分で言いよんなさる。だけん、椛目が出けたけんも何でんもお願いにくるですけんねち、もうそのお願いすりゃおかげ頂くと言持ちが走るらしいんです。そいでまた、私昨日も申しました、それであーたはそれでよかろうばってん、相手がそれじゃいかんよと、私が言うた、相手が助からん、例えば引っ掛けた人自体が助からん。ですから、引っ掛けた人が助かる為にです、そこが無効のそこんと こに基づいて、えー支払いのおかげをーしてもらわなければ、あんたとこも立たんだけじゃない相手も立たん。ね、それでは織元にもご迷惑を掛けねばならん。そこを、兎に角そう言うような罪作りな事をする人が立たんのだから、その人の事を願わにゃいかん。
ね、自分だけが金が取りさえすりゃ良か、というような願いじゃもういかんですばいと言うて、もう度々そんな事きく。その、自分の三角関係の、ご主人の場合なんかでもです、そう言うこと聞いておるけれどもさ、いくら聞いとっても、聞いとっても、そん時、なら道づけしてもろうて、その成る程そうだと思うて、その道を通っておかげが流れて来たと言う感じなんです。
今度でも理屈は同しこと、お金が返って来さえすれば良いと言うのじゃない、相手の人も助からなければならんと。そこに神様から頂くと言うそのおかげというのが、この神様はそう言うような神様なんだと。中々そこんところがですお互いが繰り返し繰り返ししておっても、それが中々身に付かない。応用問題とでも言おうか、次の変わった人間関係かそれ金銭関係と言ったような事になって来るともう意味は同じだけどもちょっと判らない。
昨日、導いて来たともう、やっぱその古川さんお導きで久留米からバーをしておる人ん所の女将さん。これもやっぱ三角関係で苦しんでおる。それでお参りしたいお参りしたいと言っておったけど、そのお参り出きなくってここ一月ばかりご無礼しておった、その方と同道で参って来ておるんですね。私、その方達とこう、楽室で色々話させて頂きながら、はあー信心と言うのは、その始めの間は何にも判らんなりにでもおかげ頂く。例えば息子さんの寝小便のような、ね、次には、少しいや信心の道と言うものが教えられて、道づけをしてね、この神様はこういう神様である。また、こういう道理でこういう難儀になっておるのであるから、そこが判ればおかげになると言う事になっておる。だから、道がそう言うふうに、例えば皆さんのように朝、晩ご祈念に参って来られる方達は、その位の事はもう充分身についておるだろうと私は思うんです、ね。
自分がおかげ頂くためという事だけが焦点ではなくて、例えばそのひっかかったと言うような問題でも、例えば詐欺のような事をしておるその人自身が助からん。そういう人が助かる為にもおかげを頂かなければならないと言う事に、に考え方が変わってくる。
昨日の朝のご祈念中に古賀先生が神様からお知らせを頂いておられる。それがあまりにもまざまざと頂くもんですから、もうほんとに、もうまざまざと頂くもんですね、頂く時には。もうここに、こう、あの、善導寺の原さんがここでお取り次ぎを願っておられるんです、ね。それにその、ここでご神米が下がってるんです。そのご神米にお書き下げを頂いておられるそのご神米に、お書き下げを書いておられる字まではっきり判るもんだから、ホットこう頭を上げたら、ここにだれも居らなかった、やっぱりこりゃご神眼だったなーと、こう思ったと言う。
そのお書き下げに何んて書いてあるかと言うとですね、何てですか ね、ああ、そのご神米のねお書き下げに前金が大切と書いてあった。前金ですよ、ね、物を買うのに前にお金を払っとてから品物を持っ て来てもらうとこう言うのです。
私は、そういうその、その事を聞かせてもらってから、どうでもお互いが前金で買えれるようなおかげ頂かにゃいけんと言う事ですね。もう、前金に金は払い込んである。だから向こうから配達してきなさる。もう、住所がかわっとりゃさっちもっち探し求めてでも届けうがこまんなさるわけです。
ね、神様がおかげをやんなさらな困んなさる位な、言わば私、信心をしなけりゃいけないと。ね、よう言われます手つけ流しの信心ってね、私はいろいろあるんですよ。例えば、そんならものを買うのに手付けだけ打っといてから品物を貰うと、ね、そして後の金は払わんと言うような人があります。信心にもそげな信心があります。もう、とっても良い信心をされる、ね、そして例えば、まあんー、何と申しましょうかね、えー、もう判り易く言うなら、もう、一月なら一月だけはもうそれこそ几帳面に、こう言うふうで行きなさいすりゃおかげ間違いないだろうと言うような、私はおん取り次ぎさせて頂きよると、一月でびしゃっとその修行を止めてしまいなさる人がある。
神様は、例えば一年なら一年そういう修行させて頂いたら、おかげを下さろうと言うんですよね。止めてしまうもんですから、また、あのー、おかげが家に頂かれないと言う人があるんです。手付けだけ打っとってからです、手付け流しになってしもうとるです。そんな馬鹿らしい話はないですよ。そして一生懸命参りよござったばってん、おかげ頂ききらんやったち。だけん信心やめたち、他の何なに様に変わったち言ったような、言わばケースがあるんですよ。
そうかと言うと、また、その手付けだけでその品物、おかげだけはもろうといてから、後は払わんと言う人がありますよ、ね。かと言うと、例えば、その古川さんに一番始めに頂かれたおかげなんかの、お願いに来た、あーその晩からもうおかげ頂いたと言ったようなおかげやらは、もう手付けはなーも打たんなりですね。所謂、そのもう借金しておかげを買うたような感じのおかげもありますよ。
そう言うおかげの事でしょうね、神様は、あの取り次ぎの者に桂先生に仰ったんですね、初代の。おかげは、さっさと、お前が徳を受けてからおかげを渡しとけさっさと。その氏子がこの世で払いが出けんならあの世まで取りに行ってやると仰った、と言う事はです、例えば、子孫の者からでも取らせてやるぞ、と言うような事じゃないでしょうかね。それでは困ります。けれども、皆さんはね、そう言う夢のようなおかげばかり願っておる、信心はせんで。お金は払わんで、そのおかげだけはまるごし貰いたいといったようなね、そう言う考え方が始めは多いんです。その理由が判らないから仕方ないようなものですけども、そう言う事になって、神様が判る。判ったら次の信心が出けてこなきゃならんね、手付け流しのような信心 じゃ、いよいよ神様もつまらんがこっちもかげな馬鹿らしい話はないと言うて、手付けだけでその向こうのおかげだけはもろうて、そして、それが支払いが出けんなりなら何時までも借金。
神様が古賀先生にお知らせを下さっておるようにですね、前金が大切と言う様な信心。もう前金さえ払っときゃ、ね、神様が何処まででも持って来て下さらなきゃならないような一つの、そう言う一つの、まあー約束と言うものがあるんですね。それを、言うならば天地の法則とでも申しますです。言うなら、おかげの受け物と言うものをまず作る事が大亊だと言う事。そこで、その前金で、大切と仰るような信心が身について行く為にです、ね、その信心とはなー、どう言う信心かと、まず自分の心の上にあの霊神様の前にお花のお供えがあっとりますね、菊の花、そすと、菊の花の周囲に赤い蕾の、丁度梅の花梅の枝の様な紅梅と思われるような、紅梅じゃないですけど紅梅と見立てにゃなりませんでしょうね、所謂その、信心辛抱梅の花です。ね、菊の花と言うのは、自分自身の心の中に頂くところの和らぎ賀こぶ心なんです。
信心によって、段々自分の心の中に有り難いなー、勿体ないなーと言う心が頂けて来るその稽古を一生懸命しなければならないと、こう言うこと。
金光様の信心のことはもう、頭では充分判って居ったけれども、ね、有り難いと言う気持ちは椛目に来て始めてその有り難いと言う心はこう言うものだと判ったと、古賀先生が言って居りますような心が自分の心の中に、いよいよ育って来なければならないと言う事、ね。古賀先生が頂いておりますように、原節子さんに、そのお書き下げを頂いておったと言う事は、原節子さん自体の事でもあろうけれども、実は原節子さんと言うその字がから御理解下さってあるのではないかと、原と言うのは心の事、腹の事、節子と言う事は節約をする、ね、慎むと言う事。先ず自分の身を慎むとこう言う事、慎むところの信心、ね。少しは眠たい、少しはきつい、けれども辛抱する。例えば古賀先生あたりが、まあ、一昨日も二時まででした、夕べはもうやっぱ十二時になりました。それでもやっぱり昨日も、今日も、私のご祈念前に此処に出てきとりました。これなんかはやはりもう原節子さんになっとるわけです。言うなら、あの、花で言うなら梅の花の信心が出けていきよるわけです。ね、心の中にも椛目に来てから漸く菊の花的信心が判ってきよるわけなんです。ね、言うならその、いよいよ前金がでおかげ頂けれるような基礎が、段々出けてきよるわけなんです。
そして、後の方にあれは八つ手じゃないですけど、まあ八つ手のような大きな葉が出ておるでしょ、あの花の後ろに、ね、あの八つ手のお知らせはですね、もう、おかげばっかり願うと言う信心と言うお知らせです。もう、八つ手ごた手ばっかり出してからち、そう言う場合に下さるんですね。もう信心はせんな、もう手だけはおかげ頂こうおちょうだいのてだけは、八つ手の手ごたる手ば出しておかげ下さい、そう言うおかげの方は一番後においてある。もう、見えんとこにこう置いてる一番後に終いこんで見えて見えないように後にさしてあるんです。ね、古賀先生が、あれば貰いたい、これを頂きたい、と言うような願い事やら、もう最後の最後でに現在なっておるわけなんです。まあー言うなら、古賀先生は前金で買わせて頂 けれるような、もう神様が、古賀先生が要らんと言うても遣らねばおかんと言うような基礎が今出けて行きよると言うわけですから、そう言うわけで古賀先生は手本ですたい。けども、いくらその手本が出けてもですよ、なら、その辛抱もです、心の中に頂く有り難いもです、ね、おかげもどうでもいいと言うくらいなその気持ちもですたい、ね、これを中途半端に終わったら、これがほんとの手付け流しですたい。そうでしょう、そげな素晴らしい手付けは打ったけども、実際のものは頂かれんです。それは、どこまで続けなければわからんけどもです、昨日の晩、古賀先生のお母さんが言っているんです。ね、ほんとに、ここにはまあ一年か、半年ででも判るもんならと思うて来たんだけども、ね、やんがて二年になる、けども、まだ一年でも二年でもここに置いて頂いて、まあ、ここの信心をほんとに頂きたい、というお届けがあったんです。
ですから、例えば古賀先生が、その神様から頂いておるような事柄です。そういう信心が、私は前金信心はもう前金が大切と仰る。この辺がまた大変味わいのある事になる、楽しみになってくる。要するに、楽しくなって来るけれども、一時も油断が出来ないと言う感じでしょうが、それを、ほんなら一生かかって続けりゃおかげ頂けると言うのではないのです。それを、私はお徳とこう思う前金でおかげを頂く、前金が大切と仰るのは、まず、信心させてもらうならお徳を頂かにゃいけんぞ、と言う事だと思う。
それを、神様が頂いておるおかげをですたい、どう言うおかげであるかと、その古川さんお例から一つ考えて見てごらんなさい、お願いに来たその日にそう言う難儀なおかげを頂いた。次の難儀な問題をお話を聞かしてもろうて筋道だけは立ててもろうた。ほんにそうだとこう思った。あっちも立たなきゃならん、こっちも立たなきゃならん、皆が立ち行くようなおかげを頂く為の道づけをして頂いて成る程、相手の女ごの人を祈り殺したいごたる気持ちがです無くなって、相手のおなごしも助からなならんと言う気持ちになって来た。心は一つも、信心修行と言ってのは出けてないと言う事。ね、思い方が変わったと見方が変わったと言うだけではなくて、それと同時に修行が大事であると言う事が判るでしょうが。ここんとこの道理 がすぐ、すぐと言うか、五年十年信心しとりますとです、これは、こう言うような事だと自分で道づけが出来るようになりますよ。所が道づけが出けただけではほんとの事じゃない。ね、その道づけが出けてもすです、その中に手付けだけでもらうおかげ、掛けで貰うおかげ、現金で買わして頂くようなおかげがあると言う事、ね。だから道づけをしてもらうと言う事と同時にです、只今申しますような菊の花とか、梅の花的なおかげを頂かしてもろうて、ね、そして、例えば神様がおかげを下さろうと言うてもです、神様もう一寸お待ち下さい、私は今漸く信心辛抱の徳と心の中に有り難たいと言うものが今頂けてきよる、ききつつあると、ところですから、これが頂けてから言うならおかげの受け物が出けてからおかげを下さい。暫く神様にお預けしとくと言うような気持ち。ね、そこに神様がもういいかげん一つおかげをもろうてくれんかと言うて、神様が追い掛けて下さるようなおかげになってくる。それを、私はお徳と言う。だから椛目では大体ここんとこばっかり、だいたい解いておるように思うんです。
氏子信心しておかげを受けてくれよ、と、と言うのはそういうような神様の借金にならんような、手付け流しにならんような、前金で買わして頂くようなおかげを頂く為の信心を、会議で朝晩、私は皆さんに聞いて貰っていると思うのですよ。だから、そこの精進が繰り返されなければいけないと言うこと。ね、それは、この神様は、申しますように、ね、場合によっちゃ金は持って来んでもです、言わば掛けでもおかげは下さるような事にもなるけれども、手付けだけでも下さる場合もあるけれども、けれども神様の願いとしてはです、例えば、古川さんが三年余りお参りをされている内にです、段々、段々、昨日なんかはほんとに始めてでした、朝のご理解をゆっくりいただかれたのは。所謂、段々ご理解が身に付いて来るに従ってですね、神様が本当の事を、こう導いて下さる、教えておって下さると言うような、それが昨日のご理解なんか実に難しいご理解でしたもんね、けれども、その二人の方はですね、二人の方がですね・・・・・(テープからは何も聞こえなくなりました。)